益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

戦後の出発
発奮 アトリエを建てて…(2)

それにもまして、居留地の変ぼうは言葉にはつくせぬ落胆だった。約二百棟あった異人館は、野沢セメント一棟となってしまっているではないか。覚悟はしていたものの、その街角に一ときぼう然と立ちつくしたものだ。山本通の荒廃した焼け跡も悲しかった。小磯氏の千坪の広大な邸宅も戦火で焼け果て、アトリエの庭の立派なヒマラヤ杉も焼け朽ちていた。ただ山本通の一部と北野町は外人居住の特別区として爆撃を免れ、多くの異人館が残っていたことは何よりもありがたかった。

しかし焼け残った山手のホテルや住宅の多くは占領軍に接収され、街は騒然となっている。仕方なく私は自宅付近を描きはじめた。この年の新制作展出品画「岡本の踏切り」「白い道」等に当時の面影が残されている。

戦後の生活はきびしい。四人の子供を抱えてタケノコ生活にも限度があり、売れない絵を描くだけでは生活できず、しばらく、宝塚中学、六甲小学校、御影付属中学、森高女等の非常勤美術講師となる。画生活とはまた異なった生活の中に多くの友人知己を得て、講師生活も無駄ではなかった。

たまたま大阪市大、造幣局等へ美術講師として行くうちに、大阪の「水」の美に魅せられ、大阪中之島、土佐堀川等へ日参。異人館のあるわが街へ常連のように帰って来たのは一九五〇年ごろだったか。焼け残りの異人館も壊されたり塗り替えられたり、青春ホテルに改装されて街は戦前の面影もなく変ぼうした。

家は相変わらず狭い二階家の相住まいで、このままでは絵を描くこともできず、ついに発奮してわがアトリエ建設に取り組む。金融公庫第一号だ。まだ建築事情もいろいろ制限があり、困難な時期だったが、篠原中町二丁目に簡素ながら念願のアトリエが完成した時は、これで安定して絵が描ける…と、うれしかった。とりわけ、母死亡後ずっと病気がちだった妻が、ここに住むようになってからめきめきと健康を取り戻したことはありがたかった。二十畳敷のアトリエ、日当たりの良い大きな窓のある部屋、何よりも相住まいの気兼ねから解放された暮らしが、妻の健康を取り戻す最上の条件だったのだ。私の画家としての生活も、アトリエを拠点としつつ、山本通、北野町かいわいへ日参の画生活が復活する。

このころの新制作展出品画を見ると「山本通り風景」「旗の見えるシュエケ邸」「山手小径」「北野町風景」「赤煉瓦の家」等、当時の異人館への思いが湧(わ)き上がるように感じられて実に楽しい。