益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

疎開―戦禍を逃れて
画材豊かな室生の里 記念作も(2)

しかし、戦局がきびしくなるに従い、この辺境にも疎開者が続々と入り込んで来るようになる。寺には大阪・小橋小学校の集団疎開児が入り、食糧不足の悲惨な生活を目のあたりに見た。村のあちこちに縁故疎開者が増え、一貫(約四キログラム)の芋を手に入れるのも楽ではない事態になって来るころには、私自身安閑と絵を描いてはいられなくなって来た。

情勢は丙種合格と言えどもいつ赤紙が来るかもしれないのである。私は画友・伊庭伝次郎氏に誘われて、生産美術行動隊のメンバーとなった。これは、軍需工場で激しい労働に疲れている人たちを、絵筆でもって慰問し励まそうというもので、画家として最低の戦争協力と言えるだろう。いわば徴用逃れみたいなものだ。あちこちに空襲が激しくなっている時に、軍需工場への出入りは大きな不安を伴ったが、出征していく人たちのことを思えば荷の軽い任務だ。私は室生に妻子を残して、時々呉や佐世保などの軍需工場を回った。

やがて昭和二十年にもなると、ラジオも新聞もないわが家にも、皇軍玉砕とか空襲の無残なニュースが聞こえて来る。名張に不時着した米兵が袋だたきにあって殺されたとか、榛原駅で電車待ちの中学生が、機銃掃射で皆殺しになったとか、室生の里ももはや桃源郷でないことがひしひしと感じられるようになった。どこからとなく、工場ではもはや航空機をはじめ軍需品の材料がないといううわさが流れて来る。戦争の終わる日も案外近いのではないかと思われるようになった。

三月のある日、西空がまっ赤に燃えて、かなり大きな空襲が察知された。

かくて八月十五日、敗戦の日を迎える。ラジオのない私の家では、玉音放送のことは知らなかった。いつものようにひっそりと暮らしていた夕方、寺に集団疎開している坂上先生からはじめて、「日本は負けたんですよ」と聞かされた。「これで安心して絵が描ける」と、私はほっとした。その夜、すっかり落ち込んでいる坂上先生の慰問と激励のために、わが家のアトリエでささやかな祝杯をあげたのである。