益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

「宴会芸とは無縁の人」の心遣い

金井家先祖をたどると、『播磨鑑(はりまかがみ)』に「城主は太尾(ふとお)兵庫頭輿次(もとつぐ)、赤松の幕下、天正頃落城」とあり、『赤松播備作城記』には「太尾城は文明元(一四六九)年後藤基信居城、五代後落城」とある。その太尾氏の末裔(まつえい)が、金井元彦さんであった。金井さんは生前、毎年四月の第一土曜になると、姫路市豊富町豊富にある太尾城跡の祖霊社=太尾神社へのお参りを欠かされることがなかった。まさしく、「古武士の礼節」がスーツを着こなして、そこに座しておられる風があったから、若い時分からバンカラスタイルとは無縁とおっしゃるその言葉には、説得力があった。

「小磯さんは、いいとこの上品なおボッチャンだからね。ボクらのような、がさつい絵描き仲間の遊びの会では、何か借りてきた猫みたいでね。気の毒でしたよ。」とおっしゃるのは、小松益喜さんであった。


あれは、『第一回新制作派展』の打ち上げの時だったですか。新参の平入選のボクなんかは、先輩たちに「なんか余興やれ」言われてね。上半身裸で頭にねじり鉢巻き、カッポレや土佐のヨサコイ節かなんか、歌ったり踊ったりしてたですよ。すると、先輩連中もみんな順番指名で、歌ったり踊ったりしはじめて、座が最高に盛り上がったところで、気が付いたら、余興まだやってないのが、小磯さんだけになっとったんですなぁ。…。