益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

「ボクの抽象画に対する審美眼」

いわゆる「60年安保」が過ぎた頃と記憶するから、昭和36(1961)年春の、文部省施策説明全国社会教育課長会議でのことであろう。文部省社会教育局芸術文化課[文化庁設置は昭和43(1968)年]からのお達しで、文部省全国選抜美術展のために、全国各都道府県でアマチュア美術家の公募展を実施することになった。

他の府県のそそっかしい社教芸文担当のなかには、「さてこそ『文展』の復活」というので、色めき立つ手合いもあったが、そんなことではなかった。当時の、文部省社教局芸術文化課専門官は、北条明直さんという方で、高名な劇作家=北条秀司さんの弟さんであった。 この方は、美術であろうと、音楽であろうと、文学であろうと、演劇はもちろんのこと、古典から現代に至る芸術百般に精通された、およそ文部省のお役人らしからぬ方で、上司のM係長、H社会教育主事やその下僚の私などは、彼の人の文化行政理論にぞっこん惚れ込んでいたから、この「アマチュア画家登龍門」公募展提案には、一も二もなく大賛成であった。この公募展が、兵庫近美にその後引き継がれた、『県展』の創始である。

その公募展の審査員の人選は、もっぱら当時の神戸新聞学芸記者=伊藤誠さんにお願いしたのだが、「洋画」部門の、記念すべき第一回展審査員には、井上覚造(二科会)さん、小磯良平(新制作協会)さん、吉原治良(具体美術協会)さんという、当時全国的にみても超一流の方々のご快諾をいただいた。