益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

「傍若無人…娘子関の戦いの跡」

小松益喜さんは、みずからを「六甲の貧乏絵描き」と称されるだけあって、この昭和十年代前半(一九四一年以前)は、三食つきの小磯アトリエで飢えをしのぎ、みずからの写生のあい間には、小磯絵画のモデルにもなって、一家の食を得たといわれる。

…よく(小磯)氏の描く絵のモデルにもなったが、私の生活苦を知っての氏の温かい配慮だったと感謝している。「人々」(二百号)の人々になったり、「娘子関を征く」の兵士になったり、「語る人」では中村鐵氏と話している人になったり−−思い出の絵は多い。

【『わが心の自叙伝』 <7>から】

小磯さんにいわせると、「小さい頃に武道で鍛えたという、筋肉質の、小さな体に不敵な面構えは、当時の日本の兵隊にはもってこい…」だったそうで、小松さんは、この頃の小磯絵画の男性モデルの、ほとんどを務めている。

「それにしても、小磯アトリエでの、小松さんの傍若無人ぶりは、目に余るものがあった。」と、なげいておられたのは、桝井一夫(一水会)さんである。

桝井さんは、小磯家お抱えの散髪屋で、月に二回ほど山本通のアトリエへ通って、小磯さんはじめ家族の方々り調髪をされているうちに、美術の世界にのめり込んでしまったという、変わり種の絵描きさんであった。