ふるさとはさすがにありがたいもので、もしかすると一生治らぬかも知れぬと思われた病が徐々に回復へ向かう。そして遂に病気克服。その後も含め小松さんは約3年高知に留まり、元のように絵の制作と思想面での勉強を続ける。
ただし国を挙げて軍国主義化への傾斜が強くなり、たまりかねた小松さんは仲間たちと反戦運動を起こした。これが治安維持法違反とされ県下一斉検挙。50余名の被検挙者の1人としてまたも留置場へ。この折りとき夫人も同時検挙されたが、7カ月余で不起訴、出所。小松さんの方は10カ月拘留後に執行猶予で帰宅許可が。家へもどると何と家族が1人ふえている。一ヶ月前に長女幹代さんが誕生していたのである。これを機に新しい生活へ進まねば…との強い思いが、本来志向していた絵の世界へ小松さんを引きもどした。高知の画家仲間と絵画研究所を作ったり、県内をスケッチして回り素描作品による「高知100景展」を開催したり。そしてやがて30歳を迎えるという昭和9年(1934)の春、再度上京の決意を固め、そのための資金づくりに初めての画会を開く。当初は画家になることを反対していた父親が率先して援助者になってくれた。夏いよいよ出発。船で高知を離れ最初に下り立ったのが神戸の街である。
神戸は上京途次のたまさかの立ち寄り場所であった。この街にとき夫人の姉が住んでおり、しばらくは会えぬからとあいさつに訪れる。しかしここで大目玉を喰った。
所持金は少ない、勤め口の目途はない、住む所も決まっていない、加えて幼児を抱え、ギリギリの所帯道具に絵具箱とイーゼル、そして自転車(?)のみで東京へ向かうとは何事か、というわけ。
世間に吹く風はまだまだせちがらい。その無謀さを諌められ、見通しのつくまでここにいなさいとの意見を容れ姉の持ち家(篠原の一角)へ落ち着くことになった。これが「一生の運命の分かれ道だった!」とは、後年小松さんがもらした心境。
仕事もなく時間を持て余し気味の小松さんは、早速に街なかヘスケッチに。ここで持参の自転車が役に立つ。以前工業学校の東京修学旅行の帰りに、船への乗り継ぎ時間の合間を活用して街へ流れたことがある。チラチラッと眺めただけの家並みだが、やはり港街らしいエキゾチックな雰囲気を感じた。自転車で走り回ってみると明るいこの街は作画の対象になる建物がワンサとある。目新しい洋風建築と対照的な路地裏、なかんずく就中魅かれたのが異人館。居留地、海岸通、山手北野町界隈などの異人館群落(現在は全くその面影なしだが)。小松さんは毎日々々画き続けているうちに一層興趣が湧き、神戸を離れる気は次第に無くなっていく。さらに絵を通じての友人もふえ、特に美術学校の先輩で神戸在住の小磯良平からは家族ぐるみ親切を受けた。最初の個展も小磯の紹介による鯉川筋の神戸画廊で。やがて同画廊経営者・大塚銀次郎に気に入られ、毎年のように同所で作品発表を持つ。絵がようやく売れ出した。