益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

(小松さんは明治37年(1904)10月、高知市の生まれ。男5人、女4人の9人兄妹中3男坊。家は酒の醸造元。小さい時から腕白だったが、なかなかの元気者で小学校6年間を無遅刻、無欠席で通し表彰を受けた。高等小学校へ1年通学したのち県立高知工業学校電気科入学。当時は電気が科学の先端を行く分野であり、子供なりの夢を持っていたという。しかし在在学中に未来の電気技師は徐々に志望を変えていく。これには周囲のほぼ同年輩者たちの影響が強かった。すぐ上の次兄は神戸高商(現神戸大学)へ通い文学に熱中。同級生の中にも文学少年がいて、小松少年もいつしかロシヤ文学を徹夜で読みふけるような状況にはまり込んでいく。

一方親戚の少年やクラスの仲間にこつこつと絵を描くのが好きな者がおり、そちらへも魅かれ水彩画を描き始める。挙句5年生になると進学目標を美術学校に絞った。しかし両親は猛反対。高等工業(旧制)の醸造科あたりへなら学資を出すが、将来の生計の目途が立たぬ美校へなど絶対行かせぬ、きかぬなら勘当だ、と父親はすさまじい剣幕。

これを有力な得意先でもある父の知人の応援説得を得てようやくクリア。ただし中学校に比べ実習時間などの多い工業学校からの美校進学は大変で、結果卒業成績は中位、受験の方は失敗。1年間上京して川端画学校へ。翌年再度のアタックを試みたがまたも不成功。ただし今回は技術面で落ちたとは思えなかった。

試験で素描画作成中、隣の受験生の仕上げが余りにもずさん、見かねて応援したのがカンニングととられ、途中退場を命ぜられたのだ。皮肉なことに手直ししてやった彼の方は撫事に合格。だが翌年3回目の受験で小松さんもパスし、以後5年間(当時は5年制)の美校生生活を送ることになる。同級生には山口薫、矢橋六郎、須山計一らが。因みに後日縁の深くなる小磯良平は4年上級。また1年下に佐藤敬、中村鉄がいた。

在学中に父の家業が倒産寸前となり学資が途絶えたが、今でいうアルバイトをいろいろと手がけて何とかしのいでいく。まずは在京中の兄の学友・三木鶴久という人の世話で同氏の勤める会社へ週3回午前中通う。この三木さんは実はとき夫人の実兄で、やがて小松さんの結婚にも関わってくることになる。心の温い人で、よく他人の世話をしたそうだ。このほかアメリカ人気俳優を模した人形づくり、首相官邸の天井画描き、各種ポスターの原画作成など絵を描くことへからむ仕事に従事。もっとも、いわばその日暮らしの連続で貧乏から逃がれることはできなかったが。

この頃小松さんにとっての最重要事は、先輩に勧められての日本プロレタリア美術家同盟への加盟であろう。急速にマルクス主義へ傾倒。「新しい時代を夢み、芸術と社会変革の統一を考え、ワクワクし」ながら充実した日々を送った。同盟の仲間には浅野孟府、岡本唐貴、内田厳らの顔ぶれが見え、シンパに島崎翁助、久板栄二郎らもいて、いわば希望に燃えた得難い青春だったと小松さんは回想する。