益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

当然全国どこにでもあるというわけではない。また洋風建築の珍しかった時代にはハイカラの代表みたいな存在であったろうし、時間の経過とともに次々新しい洋風建築が現われるにつれそれは一種の郷愁感を漂わせ始め、まことユニークな建物となっていったであろうと理解できる。しかも、その建築を細かく観察すれば、住人それぞれのお国ぶりと折り折りの生活の匂いがしみ込んだ趣がにじんでいて、エキゾチシズムを共通するとはいえ見事“個”を主張して快い。

小松さんは神戸でおよそ60年を過ごし、その間市内の500棟を越す異人館のすべてをキャンバスを通し手中にしたという。 あまつさえその1軒々々をいろいろな角度から何枚も描いている。小松さんの言によればその数は3,000点を上回っているそうだが、さてこの情熱一体どこから来ているのだろうか?

建物を生涯のモチーフとして覚悟したのは〈ユトリロ作品との出会い〉からとか。それは昭和3年(1928)頃、小松さん年齢にして23〜24歳、東京美術学校(現東京芸大)の学生時代。恐らく日本で初めての開催だと思われる「フランス(美術)展」の会場でユトリロの「モンマルトルの水道塔」と対面し大きなショックを受けた。

この感動は何だろう、と懸命に考えた挙句“絵の真髄は詩情にあり”と悟る。早速にユトリロの画集を探し求め、何度も何度も頁をくるうちに、ようし俺も建物をやろう、と心に決めた。猛烈なユトリロの影響。

ただし、ここですぐ異人館が焦点になったわけではない。あくまでも“建物”。以来小松さんは建造物、時にその周辺に派生する路地などを描いて一直線。

(最近小松さんとお会いした時、ヨーロッパへ出向いた際の喜びを、身体をゆするようにして話された。「やっぱり本場はいいね、パリなんかゾクゾクするよ。あんな建物に味のある街へなら何度でも行ってみたい」傍らのとき夫人も「いつか私やお弟子さんたちといっしょにパリへ出かけた時も、毎日朝早くから飛び出して独り勝手な行動をとっているんです。郊外を含めいろいろな所へ行ってみようと、せっかく組んだスケジュールもこの人には無縁でした」と。 ――神戸市内と同じように、パリのあちこちを小走りに歩き回る画家の様子が思わず目に浮かんだものだ。)

ところで、その建物の中から異人館がピックアップされ小松さんのライフ・ワークになったについては、やはり〈神戸での定住〉が大きい。そもそも高知出身の小松さんと異人館の関係については、今や神戸の美術家たちの間に伝説めいた話ができている。上京中の画家が途中下車した神戸で異人館に取りつかれ、即刻東京行きを中止して腰を落ち着けてしまった――と。ただし夫妻の話を聞いていくと、事はもう少し複維なようである。この点を究明し、かつ〈小松詩情〉の醸成過程を知るためにも、ここで画家の経歴を少し振り返ってみることにする。